1856年、白老に陣屋を築いた仙台藩が地元から赤松の苗約500本を持ち込み海岸近くまで植えたと!その後、台風や
病害で滅少し2003年には元陣屋跡に一本だけのアカマツが残り 今も大事に保護され、今年で155年になるそうです。  

「陣屋の終えん」 慶応4年(1868) 明治政府は徳川慶喜 追討令を下し戊辰(ぼしん)戦争が始まり仙台藩へも会津
討伐の命が下ったが、逆に奥州列藩同盟を結んで政府軍と対決 5月3日 戦火は東北地方へと疲及した。仙台藩の
戦局不利に合わせ箱館の新政府軍が、ついに 7月白老へ陣屋追討軍を派遣「賊軍」の汚名に、もはやこれまで!
撤退を決意、追討軍が来る前に、白老を去り小樽から仙台に戻り蝦夷地警備の歴史は12年で終りを告げたのだった。

15時30分,海産直売ツアーバスは寄る。タラコの本場だけにビンに詰め放題もあり。

朝8時、札幌を道央自動車道を白老町に向い走る。薄曇の空!バスの一番前の座席で見通しが良いのと先に降りれる。♪

何箇所か寄り 陣屋跡 資料館に着いたのは10時です。 「竹雀」 仙台藩 筆頭家紋も風に、はためいている。

資料館の横に敷地案内看板がありました。 駐車場からぐるっと周り資料館入口があった。入りにくい造りに?

資料館には仙台伊達の鎧・兜が飾って、元 陣屋跡は、貴重な文化財として昭和41年に国の史跡に指定されました。

この当時の大筒は外国に比べると、お粗末、歴史は急激に変化し武士の時代は衰退にむかう。

竹浦駅と虎杖浜の間にある毛蟹食べ放題オーシャン 一人3150円で御飯・蟹汁・漬物が出て毛がに好きなだけ食べて!

お〜新車の観光バス だ〜ぁ        女性ドライバーと すぐ仲良しに♪          今回は 26名の会員と同行。

北海道に、この様な跡が有ったのを知られていない。18世紀末、ロシアが千島・樺太へ次々と侵攻してきた。幕府に蝦夷地を、
ロシアの植民地にされる危機感が広がった。  その頃、松前藩がいたが蝦夷地全体を防衛することは無理と判断、蝦夷地の
直轄を津軽藩・南部藩・仙台藩・秋田藩・松前藩の5藩に分担し防衛強化を図った。(1855年)安政3年、荘内藩・会津藩も加わる)

資料館入口からの陣屋跡、土盛りが分かる。北海道の資料館には必ず熊と鹿の剥製ある。

1855年出入可・三好監物を蝦夷地に現地踏査した結果、白老を適地として1856年の春から陣屋構築に、とりかかる。

1856年(安政3年)蝦夷地警備の第一陣220余名が4月末に仙台を出発、初代御備頭「氏家秀之進」行も 5月には蝦夷地に到着。
同、秋には一応陣屋は完成。当初は一年勤務で頑張った、出張(でばり)陣屋も広尾・厚岸・根室・国後島泊・択捉島振別に、
置いて多くの藩士が任務に就いた。会津藩は1808年に稚内・樺太・利尻島・礼文島に1.633名を分け駐在、ロシア侵入を防いだ。

1984年(昭和59年)に仙台藩・白老 元 陣屋資料館が開館されました。棚には色々な兜が所狭しと飾られています。

この彫り物は倒れたアカマツの一部で作ったもので木が硬く彫るのに大変だったと。白老町にいるアイヌの方が彫刻する。

陣屋の建設には仙台から同行の大工や人夫の他、白老場所請負人、 野口屋又蔵 手配土方が加わって
急ピッチに進む。一方藩士たちは陣屋の建設中にも鉄砲・大筒の射撃、槍や刀での模擬戦に訓練も欠かさない。

蟹の食後、温泉ホテルほくように!露天風呂に行くのに一度風呂から上がり長い通路を歩き広い場所に到着。

お泊り料理は豪勢に出る。私は毛蟹一匹と飯・蟹汁でギブアップ若い時には底無しに食べれたが!

雨も降らず一日遊べ札幌に戻ったのは17時30分,人と車が交差する札幌!もう到着。

資料館に鯉のぼりが泳いでいる

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